12.1 オリエント文化

過去の事を調べることは、時空を超える旅の一つでもあると思います。
日本では、メソポタミアとエジプトの二大文明地域を総称して
「古代オリエント世界」といいます。
欧米では、オリエントとは、ラテン語の「日出ずる所」の意味で ローマから
見て東であるギリシャとそれより遠い中東やエジプトをさしています。
古代メソポタミアは、現在から遠く隔たれた最古の文明ではあるが、
現代人と変わらぬ人間がその時代に生きていたのは確かです。
古代オリエント文化は、ギリシヤ・ローマの前史というだけでなく
世界史の源点ともいえる。
確かに、古代オリエント世界については、昔から分かっていたのでなく
19世紀になってから知られるようになった非常に新しい発見であり、
時代なのです。
それは、キュウリ夫人が、放射性元素を発見したように、偶然に発見されました。
古代オリエントの世界は、18世紀ごろまでは、旧約聖書などによって
知られてはいました。
しかし、それは紀元前1000年頃の世界であり、それ以前の歴史については
伝説の世界でしかなかった。
ましてや、紀元前2000年頃のハンムラビ王などに関しては、19世紀以前までは
その存在すら知られていなかった。
古代メソポタミア文化などが発見されたのは、西アジア諸国からではなく、
19世紀の西欧からでした。
その原因は、旧約聖書に出てくる色々な場所であったり、現象が 西アジアが
舞台であったからでした。
彼ら西欧人は、当初 この地域でよく出てくる粘土板状の楔形文字を装飾文様と
とらえ 文字とは認識していなかった。
しかし、それを文字として紹介したのは、ドイツ人のケンペルという人が
1712年に出版した本が最初でした。
しかし 周りではあまり評価されませんでした。
それから、しばらくしてから、色々な学者が、楔形文字の解読を始めました。
楔形文字で書き写された言語は、シュメール語、アッカド語、ヒッタイト語、
ペルシャ語など多種類あったが、最初はペルシャ語楔形文字の解読から始まった。
18世紀から始まった解読作業は、19世紀にほぼ成功した。
最初は、ドイツ人のグローテフェンドで、1802年に成功発表し
次に イギリス人のローリンソンが1847年に成功発表した。
それぞれ別々の資料でした。 その後、色々な学者たちによって、
楔形文字の解読がさらに進んだ。
そして、おびただしく発掘されていたアッシリア語の楔形文字も解読されていった。
1857年にロンドンの王立アジア学会で、「アッシリオロジー」として発表された。
この頃から、最古のメソポタミア文明の建設者がバビロニア人よりも以前にいた
シュメール人によって 文明の基をつくったということが分かってきた。
そして、1901-2年に有名なバビロン第一王朝のハンムラビ王の法典の碑が
発見された。
その後、さらに次々と粘土板楔形文字から、ウル文字、シュメール文字、
アッカド文字、ヒッタイト文字が 解読されていった。
それによって、メソポタミアの南部にたくさんのシュメール人都市国家が
約紀元前3000~2700年にあったなどの歴史が分かってきたのでした。