13.1 縄文時代以前
(このテーマについて説明する前に)
飛鳥時代の645年 乙巳の変(大化の改新)で朝廷内で争いが起こりました。
旧勢力と新勢力の争いです。
この時、旧勢力=蘇我蝦夷らが作った「帝記」「旧辞」という文書が
あったようですが、 新勢力によって、すべて、焚書坑儒されてしまった。
よって、古事記が我が国 最古の文書になっているが、本当は もっと
古い文書が実はあった。
しかし 現存していない為、やもう得ない。
こういったことは、どこの国でも、どの時代でもよくあることです。
新しい勢力が、過去の史実をすべてなくす為、又 その内容を変えて
後世に伝える為にです。
日本古来の歴史を抹殺し、あたかもあったかのように改ざんすることが、
この時 日本でも行われた。
古事記・日本書紀によって、過去の本当の史実が改ざん されてしまった。
その事を私たちは知らない。
今回の縄文時代~弥生時代~大和朝廷の経過については、 諸先生方が
言って見える縄文時代についてと そこに私の考えを合わせて述べて
いきたいと思います。
私たちの日本列島には、色々な民族の融合体であって、間違っても
単一民族ではありません。
又、蝦夷(エゾ、またはエミシ)人とか、現在いわれているアイヌ民族と
いわれる人たちも、日本列島を生み出した、立派な民族・日本民族
仲間なのです。
縄文時代は、一般的に 今から約13,000年~2,600年前頃までの時代の
事を言っています。
その後、弥生時代に入っていきますが、どちらの時代も急に変わって
いったのでなく, 日本列島北から南まで,徐々に変わっていきました。
弥生時代は、南から北へです。
当時は、アジア大陸と樺太は陸続きであった為、容易に渡ることができた。
又、当時は今より寒冷であったため海が氷り、樺太から北海道へも、
又 北海道から本州・津軽半島へも容易に渡れた。
それぞれの特徴は、縄文時代は、生業を狩猟採集している時代で、
弥生時代は、稲作農耕を始めた時代と言えます。
縄文時代は、大きく二つの文化に分けて考えられます。
一つは、貝塚文化、もう一つは土器文化です。
貝塚文化は、日本列島をゆっくり南下していき沖縄まで伝わっていきました。
土器文化は、最初 約8000年前頃からユーラシア大陸、樺太を渡って、
北海道から沖縄まで伝わっていきました。
一般的に言われる縄文土器は ウル・シュメール人が約7000~6000年前に
起こした文化を日本列島に持ってきた部族を考えると、約6000年ぐらい
前かと思われます。
この部族は、トーテムを梟、ヘビとしていた為、 この土器に表したのが、
縄文土器、縄文土偶といわれる物です。
ただし、この土器文化は、沖縄方面には伝わりませんでした。
狩猟採集の内容は、北と南では大きく違います。
新潟・仙台以北では、サケ・マスがよく取れますが、新潟・仙台以南側では、
アユやカワムツ以外に多種類の魚が取れました。
又、堅果類も以北と以南では、違ってきました。
以南の方が種類も多く採集できました。
新潟・仙台以北では、寒い時期が11月~4月ぐらいまでと長いですが、
新潟・仙台以南では、12月~2月までぐらいと短く、又 気温も違い暖かでした。
それゆえ、新潟・仙台以南の方が収穫期間が長く、集団規模も小さくても、
生活していけたのだと思います。
前にも述べましたが、この時代の人々は、最低限の装備、道具しか
持ちませんでした。
しかし、それで貧しいわけでなく、この最低限の豊かさで充分満足だったのです。
多少の集団生活は必要ですが、距離をおいて生活できればそれでよかったのです。
日々の時間の長さは、今現在と当然同じです。
今現在を思うと気の遠くなるような時間ですが、このような長い時間が
過ごせたのはそういった所にあったのだと思います。
しかし、縄文時代晩期になると人口も徐々に増え、上下関係が複雑になり、
部族、首族など周囲との交流、又 争いが絶えないようになっていきました。
これによって、古い昔の在り方が少しづつ変化していきました。
縄文時代から現在まで時間が非常に経過している為、その貴重な遺跡などが
無くなったり、 又 盗掘されて手掛かりになる物が限られています。
その為、残った遺跡・黒曜石やヒスイの分布・遺物を手掛かりに炭素測定したり
DNA鑑定等しているのが実情です。