14.2 古事記・日本書紀から見た場合
記紀作成のきっかけは、天武天皇が「諸家に伝わる「帝紀」及び「国記」は
すでに多くの虚偽ある為、偽りを正し、真実を後世に伝えよ」という詔を
出されて、舎人の稗田阿礼(にだのあれい)に勅語し暗誦させ、その後
元明天皇が 太安万侶(おおのやすまろ)に阿礼から口承した話を纏めさせ、
712年に完成させたのが、 古事記である。
又、天武天皇が681年川島皇子以下12人に、「帝紀」と「上古の諸事」と
すり合わせし作成、
720年に完成したのが、日本書紀である。
その内容は、殆どが神話で書かれていると言ってよい。
一天皇の寿命が100才、120才と考えられない寿命の人がいます。
この時代でこの寿命は考えられません。
ですから、その時代々を繋ぐために当てはめたと推測いたします。
よく言われる、魏志倭人伝に出てくる「邪馬台国の卑弥呼」についても、
今でも確定していませんが、歴代の天皇・皇后の時代・流れから言って、
神功皇后(ジングウコウゴウ) ではないかと思われます。
これは私の推測ですが、記紀の時代の流れから次のように思います。
それは、この頃(BC670~AD600頃まで)はまだ 天皇とか皇后とは
呼んでいませんでした。
男子の場合「--ミコト」と、女子の場合「ーーヒメノミコト」と
呼んでいた。
神功皇后は、もとの名を「気長足姫尊」(オキナガタラシヒメノミコト)
とも言う。
その為、朝鮮・中国側の担当者は、この時対応したのが
オキナガタラシヒメノミコトであった為、言葉のやり取りの中で
「ーーヒミコ」と聞こえ「卑弥呼」と思い込んだのではないでしょうか?
それを、魏志倭人伝の中で「邪馬台国の卑弥呼」と記述されたのでは
ないでしょうか?
しかし、記紀の中には、こんな大事な記述は出てきません。
おそらく、記紀作成者たちは、この事は朝廷に全く記録なく、
記述することができなかったのではないでしょうか?
又、記紀に出てくる「ヤマトタケル」という人物も、実際は一人でなく、
何人もの人の事を総称して呼んでいるのではないかと思われます。
朝廷に対して、東西平定に対して、大きな業績、勇敢に戦った人物を、
「大和、勇者」(やまと たける)と一人に集約しているのではないで
しょうか?
そうでなければ、この時代に、こんな長い間(百年間ぐらい)、又
長い距離(九州から関東・東北まで)を活躍できた人物が一人とは
考えにくいからです。
又、600年以降の大和朝廷の動きは活発になってきました。
遣隋使・遣唐使の派遣、これは、この当時としては命がけの事業でした。
又、大化の改新、壬申の乱など、大きな事件が起きました。
これを年代順にあげ、簡単な説明でご案内いたします。
600年頃 中国は隋でした。
603年 冠位十二階成立
604年 憲法17条作成
607年 第一回 遣隋使派遣
(実際は、600年に 第一回派遣がありました)
610年 第二回 遣隋使派遣
630年 第三回 遣唐使派遣
大化の改新は、以下のように教えられました。
645年 大化の改新
公地公民制
班田収授法
租庸調
以上の制度を導入した。
しかし、この大化の改新の史実は、蘇我入鹿の暗殺事件で、
この制度は、後年になって改ざんし付け加えられたされたものと
言われています。
史実は、
① 中臣鎌足と中大兄皇子が起こしたクーデター
② 軽王子(非蘇我系)が起こしたクーデター
このどちらかと言われています。
646年 改新の詔(みことのり)
中央集権的な国家を作ったと対外的(中国)に言いたい為
大化の改新のような制度を作ったという記述となった。
653年 第四回 遣唐使派遣
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦い
大和朝廷は、百済を助ける為、かなりの援軍を送ったが、
唐・新羅連合軍と戦い完敗する。
前にも述べたように、古事記は国内向けに、日本書紀は対外的
(中国=唐に提示す為)作られました。
我が国にも立派な歴史があることを唐に示したかったのは事実です。
しかし、朝鮮半島での朝廷の対応については、詳細には書けなかった。
なぜなら、この頃の朝鮮半島情勢、また 中国情勢は、非常に不安定でした。
その為、朝廷が日本を守る為に、唐の日本への侵攻を回避する為に、
苦肉の策として、倭国と日本は別国であるという「うそ」をついた。
それが「日本」という国号でした。
この「日本」の由来は所説あるが、以下の事もその一つと言われています。
607年の遣隋使が隋の煬帝に持って行った手紙に
「日出処の天使---」という表現をした。
この「日出処」から 「日のもと」 → 「日本」とつけたとも言われています。
まだその頃 中国側では、日本は倭国という認識でした。
665年 第五回 遣唐使派遣
667年 第六回 遣唐使派遣
都を飛鳥から近江宮に遷都
668年 高句麗が唐・新羅連合軍によって滅びる
669年 第七回 遣唐使派遣
このように、この時期に 何度も 唐に派遣した理由は、中国の状況をつかむ為と、
唐に倭国と日本が別国であることを伝える、認めてもらう為でした。
そして、唐の日本への侵攻を回避する為でした。
又 都を飛鳥から近江宮に急遽遷都したのは、唐・新羅連合軍が大阪に上陸し
攻め込まれることを想定した遷都でした。
それほど、この当時の中国・唐は 脅威だったのでした。
672年 壬申の乱
天智天皇の後を継いだ大友皇子(親唐派)が、天智天皇の弟
大海人皇子(後の天武天皇)(アンチ唐派)に敗れた。
しかし、結局 先進国である唐にならって、新しい中央集権国家の構築を始める。
690年から 中国は唐から周に変わる。
武則天皇后が初代皇帝になる。
694年 都を近江宮から奈良 藤原宮に遷都
702年 第八回 遣唐使派遣
日本では中国の情勢に非常に神経をとがらせていて、前回の派遣から約33年
たってから、やっと訪問した。
この派遣の時、武則天皇后謁見の際 やっと倭国でなく「日本」と認められた。
これ以降 国号は、正式に「日本」国となった。
これが、日本の始まりであり、又、国主を以前は、大王とか国王と呼んでいたが、
天皇と呼ぶようになったのは、おおよそ750年以降で、
それぞれの天皇名は、後から遡って名付けられた。
ここで記紀から分かる名付けられた歴代天皇年表を提示します。