14.5 邪馬台国台頭・卑弥呼出現(三郡誌からみた弥生時代中期)

2世紀後半には、九州北部辺りに 吉備の豪族「邪馬台国」吉備から攻めてきた。
筑紫国の原住民 猿田一族は、一端は邪馬台国に滅びる。
邪馬台国は、昔は陽茂台(ヤンマオタイ)と称していた。
邪馬台国には、女祈祷師 卑弥呼がいて、その勢力は強かった。
卑弥呼は、すべての政(まつりごと)を祈祷で行っていた。
しかし 時代経過とともに日向族が勢力をつけて、猿田一族を制圧し、
筑紫州を統一する。
猿田一族は、邪馬台国と日向族との攻防の際、過去の件もあり 日向族に加担する。
そして 東征し、邪馬台国として、大和中央に君臨するようになった。
そして、邪馬台国五畿になっていった。
次に、筑紫日向族は、安芸国を攻め、出雲国にも押し寄せ、邪馬台国五畿、
七道攻め込む。
出雲族は筑紫日向族に国を譲った。
途中、紆余曲折あり、ついには 出雲族、南海道は 日向軍に加勢する。
この頃は、日向族に領奪され残った土着民は、筑紫日向族に着いた。

その後 3~4世紀には大和政権として成立していったと考えられていますが、
これも古くからある日本各地の有力豪族すべてではなく、少しまとまっただけの
連合体国に過ぎなかった。
日向族が邪馬台国五畿に攻め入るのは簡単でなく、大和川・生駒山からは無理でした。
よって、迂回し 南の紀州 又 熊野から攻めていった。
その時 邪馬台国側が作った日本の万里の長城といわれる石垣が、奈良・和歌山・
三重の 県境辺りに残っています。
中国の万里の長城とは、比較にはなりませんが、何とかそれで日向族軍を
食い止める為に造った。
邪馬台国は、長髄彦命・安日彦命で防戦するが、歯が立たず、最終的に
奥州東流日に退散する。
安日彦命、長髄彦命は日向族に滅ぼされ今の東北地方へ逃げてきて 長髄彦命は、
奥州の会津にて、安日彦命と落ち合い、さらに北の陸奥東流日に退く。
元々いた豪族=津保化族は、瞬く間に長髄彦命たちに負けて、合併するしかなかった。
その後、この地方から奈良=中央の大和政権にも役人として送り込んだ。
入間浦なる丘(今の秋田男鹿半島付近と思われる)に支那漂着民公子一族を到着し、
彼らの英知を基に、 津保化族と合併し、荒吐族となる。
又、荒吐族王と称し安日彦命、長髄彦命が君臨する事となる。
この時、支那・韓国人なる漂流民が、
種をまき実る穀物を保食するのを見、 又、支那・韓国人なる漂流民族が、
稲作を営むのをみて東日流でも農耕・稲作を始めた。
それから、この地域でも農耕民に変わっていった。
又、支那・韓国人なる漂流民族は、志那の進んだ技術、舟造り、家造りに秀でていた。
又、農耕、漁業、鉄加工の技術も優れていた為、その技術も取り入れ、荒吐族は
勢力をつけていった。 これによって、弥生文化が東北地方にも浸透していった。
このように民族融合があって、衣食住も変わっていった。
そして、この地方ではアラハバキ神を信仰するようになっていった。
古代東北地方(白河より北のみちのく)を、エミシと言っていました。
最初は、毛人(エミシ)と書いていました。
大化の改新 (645年)以降から、蝦夷=(えみし、又はえぞ)と書くようになった。