14.6 大和朝廷 旧・新(三郡誌から見た弥生時代末期)

筑州の日向族が大和に君臨するようになり これが、大和朝廷になっていった。  
蘇我蝦夷・入鹿一族は、645年 「乙巳の変」で殺害されたとあるが、
実は 殺害されず、日本海側をつたって東北に生き逃れたのではないか?
それから、大和朝廷は、この地方を「蝦夷地」と言うようになった。
その頃の大和朝廷は、蝦夷地を他外地として放棄していた。
しかし、大和朝廷は、この一族の反撃・再復活を恐れ、
以後この地方への征伐を何度も行った。
代表的には
① 658年 阿倍比羅夫 遠征
② 810年 坂上田村麻呂 遠征 などがある。
又、この蝦夷地を征伐する大将として「征夷大将軍」と名付け、室町時代、
江戸時代にも、引き継がれていった。
しかし、この「征夷大将軍」の意味合いは、室町時代、江戸時代では
異なっていきました。
以来 この地方は 東流日(ツカル)→津刈(ツカリ)→津狩(ツカル)→
津軽(ツガル)と 呼び名が変っていった。

同時進行になりますが、その頃、朝鮮半島は中国の影響を非常に受けていた。
朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅 三国が凌ぎを削っていた。
大和政権は、百済とは親交が深かったが、高句麗、新羅とは、親交なかった。
また、その当時の中国の唐が新羅応援したこともあり 百済は新羅に攻め込まれ、
高句麗にも挟まれ、滅んだ。
やもうえず、その一族が日本列島の日本海側に沿って 逃亡してきていた。
これが支那漂着民公子一族で、今の秋田、青森津軽半島辺りにも上陸してきた。
660年 百済滅亡
663年 白村江の戦いで、大和朝廷は、唐・新羅連合軍に完敗した。
よって、朝鮮半島は、新羅の支配になった。

この百済滅亡の時、百済の一部の人たちが、逃亡し日本に渡ってきた。
大和朝廷は、百済とは親交が深かった為、この漂着民を救った。
東日流(今の青森辺り)で、荒化吐族と、旧大和政権と百済からの亡命者たちで
荒吐族を結成した。
ただし、すべての人々が東日流方面に渡ったのでなく、日本列島各地に
住み着いていったと思われます。

ちなみに、奈良時代の奈良の大仏を造成時、9世紀中頃 鍍金する為の
黄金900両を東北陸奥国司、元百済王 洪福が 聖武天皇の時代に献納した。
聖武天皇は非常に喜んだとの事。
これもこのような経緯からもお分かりかと思います。