14.8 私の弥生時代の考察
縄文時代から弥生時代の推移について、記紀と三郡誌で述べてきましたが、
共通している部分とそうでない部分があります。
共通している部分は、大和地方には、元々 豪族 ナガスネヒコが住んでいた。
その豪族が、神武天皇(日向族)に敗れたという事。 ただし年代が異なる。
又、記紀では、敗れたナガスネヒコがその後どうなったのかについては
まったく触れられていない。
三郡誌では、ナガスネヒコが日向族に敗れ、若狭辺りから日本海側を北上し
東北地方へ移り住んでいった経緯を述べている。
又、日本海沿岸に沿って、朝鮮からの移民がかなりあったことの記述もある。
しかし、その後の大和地方のことに関しては、殆ど出てこない。
又、時代の登場人物に状況が違う。
魏志倭人伝では、邪馬台国の「卑弥呼」とのやり取りがあるが、記紀では、
神功皇后がその人物にあたるが、卑弥呼という人物名は出てこない。
しかし、三郡誌にはその当時、九州北部の豪族で「邪馬台国」という国があり
そこに占い師の「卑弥呼」がいたとあるだけである。
よく言われている魏志倭人伝にでてくる邪馬台国の卑弥呼については、
殆ど関係ないようである。
つまり、各々の自国の関係する事ではなかったからではないではないだろうか?
どちらにしても、この縄文時代から弥生時代については、南方からの移住者が、
九州南部(日向辺り)に上陸し時間をかけて大和地方に攻め入って、
元々いた豪族を北に追いやり、それに伴って 稲作文化が日本列島を
南から北へ、約1,300年ぐらいかけて広がっていったことに変わりがない。
ただし、その間 朝鮮半島からの影響も当然ありました。
時には、朝鮮半島・南部と九州北部であったり、
時には、大和朝廷と 百済・新羅であったりと、
色々複雑に絡んでいたことは確かです。
人・兄弟・親族を殺す事件が、必ずついて回りますが、
今のような、又、戦国時代のような武器のない時代ですから、
どのように殺したのかわかりませんが、
それによって、時代が作られていったのは確かだと思います。
蘇我蝦夷・蘇我入鹿が、記紀には悪人であったように書かれているが、
本当に悪人だったのでしょうか?
本当は非常に善人であったのではないでしょうか?
昨今の遺跡発見されてきている、礼文島人骨、青森県三内丸山遺跡、
佐賀県吉野ケ里遺跡から推測すると、やはり記紀内容の時代流れより
三郡誌内容の流れの方が、より史実に近く思われます。
三内丸山遺跡は、東北地方を中心とした縄文時代の遺跡と言われています。
又、吉野ケ里遺跡は、紀元前400年から紀元300年頃の遺跡と推測されています。
そのほかにも、関東地方でも縄文・弥生時代の遺跡が発見されています。
又、西日本から関東地方には古墳遺跡などはあります。
しかし、奈良地方には200年前後以降の遺跡などしか発見されていません。