14.1 弥生時代の始まり
縄文時代から弥生時代の説明に入る前に、少し私の考え方を 述べてから進めたい
と思います。
一般的に縄文時代と弥生時代については、下図のような表現されることが多いか
と思います。
しかし古い時代(縄文・弥生・奈良時代)については、日本には 確かな
歴史書はありません。
最古の書物=古事記・日本書紀(以下記紀と表す)などがありますが、
内容的には非常に曖昧です。 又、東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)
(以下三郡誌と表す)・竹内文書も同じように不確かではありますが
同じような歴史部分の記述もあります。
その点を踏まえながら、述べていきたいと思います。
縄文時代から弥生時代への移行の大きなポイントは、やはり狩猟採集文化から
稲作文化へ変わっていった事です。
それは、やはり南から移動・移住してきた人々が徐々に南から北へ伝えて
作り始めたからです。
しかし、その場合、やはりその栽培方法も分かった人々がそこに住みついて
拡げていったからでした。
そこには、当然 失敗も繰り返しながら、その土地その土地で長い年月をかけて
日本列島(北海道は除く)に拡がっていった。
それは、記紀の歴代天皇と重なってきます。
古事記には、歴代の天皇を上げていますが、年代には少し曖昧な点があります。
しかし、日本書紀では対外的、特にその当時の中国を意識して書かれています。
日本書記では、神武天皇から持統天皇までの事を書いています。
しかし、古事記では天地の始まりから現れた神々、天孫降臨など詳しく
述べています。
その際、ウガヤフキアヘズという人名が出てきます。
この人名は、竹内文書にも出てきます。
天孫のニニギノミコトから神武天皇の父ウガヤフキアヘズまでの日向三代の神話は
BC677年頃、朝鮮半島からでなく、南からのある移民族が最初九州の今の
日向(青島辺り)に一端上陸し、その後内陸に進んでいった。
その当時、まだ日本列島は縄文文化でしたので、新しい文化を持った人々とは、
色々な面でまったく遅れていました。
新しく移動してきた人々は、戦う為の道具・方法も持っていました。
当然、稲作の方法も知っていました。 しかし、九州、および日本列島の地理的
情報は全くなかった。 その為、それを把握する為に非常に時間がかかった。
最初は、九州の土地豪族 熊襲族との戦いでした。
その次に、中国・四国・瀬戸内海をへて、今の奈良地方への進出していった。
これが神武天皇の東征です。
記紀は奈良時代に新大和朝廷を作り上げた立場で書かれている。
参考とした旧辞・帝辞には、おそらく旧大和朝廷の立場で書かれていたと
推測いたします。
どの時代でも、どこの国でも、その歴史に不利な内容の文書は残せない為、
焚書坑儒されます。
おそらくこの帝紀・国記もその類いだったと思われます。
当初、奈良地方にいた土着豪族は、ナガスネヒコでした。
この豪族が中国・四国・瀬戸内海から攻めてきた神武天皇に立ち向かった。
最初は河内方面から攻めてきたがなんとかしのいだ。
しかし紀伊半島の 南側に回って熊野方面からの攻めにあって、破れてしまった。
この時、戦に破れ押しやられた人々が若狭辺りから日本海側を北へ北へと
移り三郡誌にあるような移動をしていったと思われます。
記紀に出てるくる神武天皇は、元は伊波礼毘古命(イハレビコノミコト)といいます。
神武天皇は、筑紫の日向の高千穂に天孫降臨してから東征し、
大和の 土豪「ナガスネヒコ」を打倒・勝利する流れで書かれています。
三郡誌は、この時に敗れた「ナガスネヒコ」の立場で書かれています。
どちらも、日本列島の弥生時代の事になりますので、以下のように述べていきます。
①記紀から見た弥生時代について
②三郡誌から見た弥生時代について
③両方に基づいた私の考察