雑学(12) 「生きる」とは?

私、又 すべての人たち、子供、大人、老人
世界中の人たち、すべて生きている。
では、本当の意味で「生きる」とはどういう事なのでしょうか?
今回は、この「生きる」について、私なりの考え方を
述べたいと思います。

これを、分かりやすく説明する為に、動物にもあてはめてみましょう。
私たちは、動物園・水族館に行って、そこにいる生物たちを見ます。
それを見て、私たち・子供たちは
世界にはこんな動物・魚がいることを知ります。
動物・魚たちはみんな、飼育員さんに餌などを貰って生きています。
立派な施設で、なるべく自然に近い状態を保ちながら育てられています。
しかし、それが本当に生きている事と言えるのでしょうか?
動物園・水族館などが悪いと言っているのではありません。
しかし、本当に生きるとは、私は違うと思います。
やはり、環境がどうであれ、野生が一番いいと生き物たちは
思っている?のではないかと思います。
野生には、色々危険もありますが、自分で自由に行動し
自分で餌をとり生きることができるからです。

人間社会ではどうでしょうか?
ポツンと人里離れた所の一軒家で生活している人たちを
報道・撮影しているテレビ番組があります。
私たちは、そこに映し出された人たちを
さぞかし、不自由な生活しているだろうな、
電気も水道も来ていない。
よく、こんな所で生活できるな、と最初は思い見ています。
しかし、当の本人たちは全く不自由を感じていない。
むしろ、自由を謳歌しているという。
水は、雨水を貯めて利用したり、
湧き水を引いてきて、利用する。
太陽が昇れば、起きて畑仕事をする。
日が暮れれば、文明の力を借りて、太陽光パネルを自分で設置し、
電気を作り、事足りていると言う。
まさしく、「晴耕雨読」ですね。
現金収入はというと、育てた野菜などを売って得る
自分の趣味を生かしたものを作って売る程度。
時給自足で生活し、自分たちが食べて生きていれば
それでいいという事です。

確かに私たちが今生活している・住んでいる日本は、
電気・ガス・水道、その他のインフラがほぼ充実しています。
そして、何不自由なく、生活しています。
親は家族を養うために一生懸命働き、生きています。
それも生きる事になると思います。

私の父親(以後、じいちゃんと言う)は、
もう数年前に亡くなりました。
じいちゃんは、竹細工が得意で自宅から約600mぐらい
離れた場所に自分専用の小屋を作りました。
キッチン・トイレ・浴室・寝室も完備していました。
約40年間ぐらい、自宅と行き来し、そこで竹細工や
それ以外の事もして生活していました。
自分の好きな時に起きて朝食を取り、
近くの喫茶店でモーニング珈琲を飲み、
いつも集う人たちと会話をし
好きな時間に竹細工をし、過ごしていました。
一日一回ぐらいは本宅に来て、
用がある時以外はずーっと、小屋でした。
じいちゃんには、そこが本当に自分の場所だったのです。
しかし、85才ぐらいから認知症が出てきて、
車も乗れなくなりました。
認知症が進行し、徘徊するようにもなりました。
その為、じいちゃんを自宅から出られないように
私たちは、家に二重ロックをかけました。
しかし、二重ロックを解除することを覚え、夜昼構わず、
徘徊するようになりました。
どんなに雨が降っていても、雪が降っていても、
寒くても、行先は、例の小屋でした。
やはり、じいちゃんには、この小屋が自分の生きる
場所だったのです。

最近では、ウクライナ戦争の関係で日本に一時避難されている
ウクライナの人たちに、
「この戦争が終わったら、どうするの?」と聞くと
「このまま日本で生活していきたい」という人もいますが、
多くの人は、
「戦争が終われば、すぐにでも帰りたい。」
「いつかは、自分の国、ウクライナに帰りたい」と言う。
つまり、ウクライナの人たちにとっては、
ウクライナの土地がやはり、生きる場所だからでしょう。
どんなに、ウクライナの町がロシアによって破壊されていても。
日本では、自分が自分らしく自由に生きられないからでしょう。

このように、「生きる」という考え方もあるという事を
私は伝えたいのです。