0. まえがき
以下のような 中東に伝わる一つの寓話があります。
ある創始者は、自分自身に引き続いて起こる困難な出来事について
悩んでいました。
そこで彼は、これらの問題の深層部に潜む核心について考える為に、
東の方へ旅行し、広い平原で瞑想にふける為火を燃やしました。
そうして彼は、この瞑想によって深い知恵を得て、困難を克服し
成功することができた。
彼の次の世代になったとき、彼らもまた数多くの困難に遭遇しました。
そこで彼らも、自分たちの師が訪れたのと同じ場所に行って 同じように
火を燃やして瞑想にふけろうとしたが、 師がおこしたのと同じような
火を燃やすことはできなかった。
しかし、彼らもまた瞑想にふけり、人生の困難を乗り越え 成功を収める
ことができた。
その次の世代になって、また彼らは数々の困難と出会った。
彼らもまた、同じ場所に行って、瞑想にふけろうとしたが、
火の起こし方も瞑想のお祈りも唱えることができなかった。
しかし、それでもなお、その場所へ行ったというだけで、彼らは
人生の困難を克服し、成功を収めることができた。
その次の世代も、困難に出会った時、祈りの場所へ行こうとしたが
それがどこなのか見つけることができなかった。
もちろん、火のおこし方も瞑想のお祈りの仕方も分からず何もできなかった。
つまり、彼らは何もできなかったのだが、ただ一つだけできることがあった。
それは先祖たちのおこなったことを話し合うことだった。
彼らが昔の人たちのことを話し合った時、彼らはそのことによって
さまざまな人生の困難な問題から解放されたのである。
これは、過去の事を記憶することがいかにむつかしい事であるかを示す
寓話ですが、 現在の我々にもこのたとえは重要な意味を持っていると
思います。
現代の我々が、古代の人たちが訪れた場所へ行くことはできない。
また、古代の人たちのような旅をすることもできません。
しかし、我々はこれらの過去の偉大な人々のことを話し合うことはできる。
もし、我々が過去について話し合うならば、何らかの意味があるはずである。
我々の語り合ったことが、やがて誰かが聞き、それについての研究される
であろう。
そして、何らかの事実が発見されるかもしれない。
しかし、我々が何も語り合わなかったら、何も残らない。
これから私が色々 報告する中で、色々な古文書の事も出てきます。
古事記、日本書紀、竹内文書等です。
私はこれらの中身すべてを正しいと思いませんが、その中の ほんの一部かも
しれませんが、その作者・製作者たちが、そこには 未来の人に伝えたい
本当の史実があると思います。
日本ほど 自然環境・人的環境、また,これほど素晴らしい文化を持っている
国は 他にないということを伝えたいからです 。
そういうことを踏まえて、これからの報告を読んでいただければ幸いです。
順次投稿していきますが、もし投稿後で、また途中から、この内容を読まれる
場合は、目次に沿って読まれることをお勧めいたします。