11.7 農耕民族への移行

つぎに大きな変革事項は、農耕を始めたことである。
なぜ、農耕民族に代わっていったか?

人類は、長年にわたり植物を採集し、動物を捕らえて食料としていました。
又、これらの動植物は、人類とは全く関係なく暮らし生きていました。
しかし、ジャワ原人、ネアンデルタール人等はどこにイチジクの木があり、
どこの草地でヒツジの群れが草を食べているかを、又 いつごろかも
把握していました。
ホモ・サピエンスは、東アフリカから中東地域へ、ヨーロッパ大陸、
アジア大陸へ、そして、最後にはオーストラリア大陸、アメリカ大陸へと
広がっていきました。
この流れは、当然日本列島にも押し寄せていました。 ホモ・サピエンスは、
どこへ行っても同じ暮らしを継続していきました。
だが、約1万年前頃に変わった。 農耕を始めたからでした。
約1万1500年~1万500年前頃 トルコ南東部、イランの西部あたりの
丘陵地帯で始まった。
それは、地形的に限られた範囲でゆっくりと始まった。
約1万1000年前頃 小麦が栽培され、ヤギが家畜化されました。
その後、えんどう豆、オリーブの木、ブドウの木が栽培され、馬 ラクダ 
牛も家畜にされていった。
このようなことが、世界各地でそれぞれのその土地ならではの独立した方法で
トウモロコシ、ジャガイモ、稲、カボチャ、サトウキビ、バナナなどが
栽培されていった。
本当は、一般的に 農耕民族は、狩猟採集民族よりも生きていくのが困難で
満足度が低い 生活を余儀なくされていた。
農耕民族は、農耕によって 手に入る食糧の量も確かに増えたが それによって、
自分たちの生活がよくなって、自分たちの自由な時間が増えることには
ならなかった。
むしろ、人口の増加や、エリート層の誕生に発射がかかってしまった。
そして、大きな特徴は 狩猟採集民族の場合、凡そ100人ぐらいの集団を
維持するのがやっとでしたが、 農耕民族の場合は、1000人規模の集団で
あっても維持できた。
ただし、人々は体が弱くなり、栄養不足に苦しんだ。
しかし、農耕社会には 多くの人を生かし育てる能力があった。
狩猟採集民族では、移動が多く、女・子供は重荷であった。
しかし 農耕民族では、永続的な土地で食糧が増え、女性は毎年子供が
産めるようになり、 子供をお粥で育てれるようになった。これが大きかった。
次第に、子供の出生率が死亡率を上回り、村単位の人口がさらに増えていった。
前の狩猟採集の暮らしの方がよかったのに、なぜ 農耕生活をやめなかったのか?
それは、前より一生懸命働けば、前より良い暮らしができるという彼らの
胸算用があったからである。
小さな変化が積み重なって、社会が変わるまでには何世代もかかっていた。
社会が変わったころには、かつての違う生活をしていたことを思い出せる人が
いなかったからである。
そして、人口が増えてもう前の生活に引き返せなくなってしまったのである。

これは、今の私たちにもあてはまる事であす。
日本は、1950~1960年代 戦後復興で時代が大きく変わりました。
電気は何とかあったが、
以前は,火はろうそくで明かりをとり、ほとんどが人力でした。
ところが テレビ、洗濯機、自動車が各家庭に入り込み、どんどん 進化し 
2020年では、 テレビ、洗濯機、自動車も格段に進化した。
電話機については、呼び出し式からダイヤル式に、 そしてプッシュホン式、
今では携帯電話で、ありとあらゆることができるようになってしまいました。
1950~1960年代では、全世界の事件等はなかなかすぐにはわからなかった。
しかし、今では どうでしょう。
すぐに地球の裏側の出来事が分かるようになっています。
私も、1980年頃 会議資料は手書きで、電卓をたたきながら、何時間も
かけて作成していました。
その後、簡単な自動計算システム「ロータス1.2.3」が入ってきて、
EXCELが入ってきて、順次バージョンアップし、以前は何日もかかっていた
計算・資料作成を、瞬時にして、 又 膨大な量のデーターを正確に
処理してしまうようになりました。
今、以前のような社会に戻ることを良しとして変えられるでしょうか?
無理です。
それと同じで、昔の中東地域であろうと、ヨーロッパ地域であろうと、
ある集団が定住して土地を耕し始めれば、農耕の魅力に抵抗できなかった
のである。
そして、それが 部落→国家→帝国へと拡大していったのです。