16.2 新嘗祭(にいなめさい)と白山(しらやま)信仰
私たちの米文化は、 それは稲作を始めてからですので、当然弥生時代以降からに
なります。
縄文時代では、なかった文化です。
毎年年末になると、新聞屋さんが「高島暦」を持ってみえます。
当然、書店にも色々な種類の「高島暦」が並んでいます。
この中には、来年の運勢なども載っていますが、農業・稲作を中心に書かれています。
いつ種を蒔くか?いつ稲の苗を植えるか?
いつ害虫駆除したらいいか?
稲をいつ収穫するか?
そして、いつ新嘗祭を行うか?などという事が書いてあります。
「田の上」「穂積」といった地名が日本のあちこちにまだ残っています。
苗字にもあります。
苗字には、「田中さん」「上田さん」「田上さん」といった方もみえます。
これら、すべて稲作に関係して残っているものです。
稲を収穫する時、稲刈りをして、少し乾燥させてから穂を取ります。
それが玄米で、そして精米してやっと白米になります。
この稲刈りした束(刈稲)をそのまま積んでおく場所の事を、荷穂場と言い、
荷穂=ニホ→乳穂→ニュウホと言います。
稲積(イナセキ)、穂積(ホセキ)とも言います。
この辺りは、日本各地色々な呼び方をしますが、その地方の方言、
言葉癖により違ってきますが、意味は同じです。
つまり、稲作というのは、昔の日本にとって大事な一大事業であった証
(あかし)です。
この積み方は、すべて稲の束を、穂先を内側にして円錐形に積み、
最後の一束を笠のように穂先を外に向けて覆いかけるのが多く、
さらには、上に藁帽子ようなものを 作り載せている所もあるようです。
ニホ→ナニ→ニヒナメ→嘗→新嘗となり、ここから穀霊信仰が生まれ
稲作民族の行事として、新嘗祭が生まれました。
これは、我が国の祭祀のすべての物のなかでも、特に重要である稲という一つの
穀物の収穫に際し、あらゆる丁重な儀式を執り行った結果です。
ですから、天皇陛下が、皇居の中で今でも行われているのは、
その為と私は思っています。
この新嘗祭を別の呼び方で「稲のシラ」という所があります。
又、蚕をオシラサマという所があります。
蚕は白い糸を出します。
春深くまで、消え残る高嶺の雪を、蚕の豊産を祈念する行事から
農神・作神、又は国神(クニツカミ)の祈祷行事として始まり、
農神→オシマ様→シラヤマ様と言われるようになった。
春の農始めには、穀物の種子を高い空から御降りなさるものと信じ、
この山の神を 雪神といい、ここからシラヤマを白山といい、
白山(シラヤマ)信仰が生まれました。
山は稲を育てる為の大事な水を供給してくれる。
昔から山に残った雪の形を眺めて、来る秋の実りをうらなう事をどこでも
行っていました。
中には、山に残った雪の形で、もうそろそろ稲の種を蒔く時期などと
暦にしている所もあります。
だから、日本(北海道は除く)の山には杉やブナ、ヒノキなど木を大切に育て、
むやみに伐採しませんでした。
木は水を守ってくれていることを知っていたからです。
しかし、西欧諸国、中国、朝鮮半島には、日本の山のようには木が
びっしりとははえていません。
又、こんなお百姓さんの知恵がありました。
今では、農地改良などされて、めっきり少なくなっていますが、
昔の田園風景で、秋のお彼岸近くになると、田圃や畦道や土手に
びっしり、ずらっと、彼岸花が咲いているのを見ました。
何故、昔は田圃の畦道や土手に彼岸花があったのか?
これにも、理由がありました。
それは、畦道や土手をモグラから守る為です。
昔からどこにでもモグラがいました。
特に田圃・土手には。 これがお百姓さん泣かせだったのです。
モグラが畦道・土手に穴をあけってしまい、田圃や土手にせっかく貯めた水を
その穴から出てしまう。モグラは害でした。
しかし、モグラはこの彼岸花の根が大嫌いでした。
よって、モグラは彼岸花の咲いている所には近寄れなかったのです。
これによって、お百姓さんは田圃や土手の水を守れたのでした。