13.2 縄文時代

日本列島への移民は、最初は約38,000年前頃 渡ってきた。
ルートは、シベリア、樺太 北海道ルートと推測されています。
それから、日本列島を渡り、奄美大島、沖縄まで移り住んでいった。
この時代に移り住んできた民族は、狩猟採集民族でした。
又、日本列島、北海道から沖縄まで 海・山とも動植物が豊富で
暮らしやすかったのは事実です。

縄文時代の民族は、侵略好まず、己が一族の国造りに営み、欲もなく、
山里海に群居なし、 豊かに暮らしていた。それで満足していた。
この民族は、トーテムが、「梟」(ふくろう)であり 又、「ヘビ」も
トーテムでした。 その為、この頃の土器には、縄(なわ)文様がありました。
そこから縄文土器と一般的には言われていますが、
この縄文様は、縄でなく実はヘビを現していると私は思っています。
又、この頃の人型の土偶も多数日本列島各地で発見されていますが、
その中には目の大きな土偶もあります。
この民族のトーテムが、「梟」というのは、古代オリエントのウル人・
シュメール人の トーテムと同じなのです。
つまり、この渡ってきた民族は元々はウル人・シュメール人の子孫たち
なのではないでしょうか?
だから、この土偶の目の大きい所は、梟の目を現していると思うのです。
例えば、亀ヶ岡遺跡から出土した遮光器土偶です。

(東京歴史博物館展示品)

日本列島は、南北約2,000kmある為、縄文時代晩期と弥生時代は、
簡単に変わっていったのではなく、約1,000年ぐらい(BC700~DC700)
にかけて変わっていった。
この時代の特徴は、前にも述べたように狩猟採集民族でした。
日本列島至る所から貝塚が発見されています。
このような暮らしをしていた跡がある時代までを、縄文時代と言えます。
そして、新しい民族、農耕民族が入ってくる頃が弥生時代の始まりです。
今と違って、稲の穂だけが渡ってきただけでは、稲は栽培できません。
やはり、その作り方、栽培方法が分かる人がいなければ農耕はできないからです。

縄文時代と弥生時代の違いについて、私たちの学校では、土器の違いなどで
分けていたと思います。
しかし、私は、狩猟採集民族から農耕民族に代わっていった時代だと思います。

ホモ・サピエンス、古代オリエント時代で述べてきたように、
日本では稲作農耕を始めてから弥生時代に入っていったと思います。
これには、日本列島の南から北まで伝わるのには、非常に時間がかかりました。
ただし、北海道では、気候問題で、この当時の技術では無理でした。
紀元前10世紀頃 稲の穂は 朝鮮半島から九州に入っては来たようですが
それを育てる技術はなかった。
その最初が神武天皇が日向の地に降り立ってからと記紀には有ります。

ここから私の推測になります。
(BC670年頃) 神武天皇が率いてきた部族は、旧約聖書で言われている
「失われた10支族」の一部の民族と私は推測いたします。
古代オリエントでは、BC1000年頃からアッシリアの勢力が増していて
ユダヤの地域もその影響で祖国の土地をやもうえず離れなければならなくなった。
紀元前700~600年頃、ユダヤの地を後にして、その部族たちは世界各地へ
移動していきました。
この民族は、ユダヤ地域からきた民族の為、言葉・文字・そして農耕技術を
すでにもっていた。
おそらく、稲作技術は、インドネシア、フィリピン諸島経由し、 沖縄諸島から
九州=日向に、何年もかかって辿りついたと思われます。
この民族は、一度でなく何回にも分けて、女・子供を連れてきたと思われます。
その土地、土地で色々な農耕技術を、時間をかけてゆっくり育て持ってきた。
今でいう、海のシルクロードで渡ってきたということです。
当然、陸のシルクロードでも、渡ってきている人々もありましたが、 途中 
色々な障害があり、途中の地域でも当然残り留まった人々も数多くあった。
しかし、海のシルクロードの方が障害も比較的少なく、陸よりもスムーズに
渡って来れたようでした。